らくだ岩::自然が作ったとは思われない岩だ。この岩は道路沿いにある。

やがて遠くに、トウズ湖(塩湖)が見えてきた。

途中バスの中から、ハサン山 3268mを撮った。

泊まったホテルは洞窟風に作られていた。



ここでは実際の洞窟で造られているホテルもある。

この岩の中にある部屋を見せてもらっつた。

セルベの谷

カッパドキア  (世界遺産)

ギョレメ野外博物館

地下都市

 カッパドキアには地下都市が、最近までに36個所に発見されている。カイマクル地下都市は、最大級の規模のもので、地下8層にも及ぶ。換気孔の深さは85メートル、都市の広がりは4平方キロほど。人口は、諸説あるが、3,000〜3,500人ぐらい。カッパドキアの地下都市全体では、10万人が住んでいたと言われている。
 地下都市が形成されたのは、カッパドキアでの諸民族の興亡が激しく、外敵の侵入が絶え間なかったためのよう。最古のハッティットの時代から、アッシリア商業植民地、ヒッタイト、ペルシャ、アレクサンドロス帝国、ローマ、セルジュクと諸民族の興亡があった。



カイマクル地下都市

収容人員は4,000人あり、地下40mの深さまである。この都市は地下8階になっており、地表から貯水槽まで垂直に延びる穴が換気孔の役割を果たしている。敵の襲来に備えて各階の入口に巨大な石臼のような扉が用意されている。

出口にはお土産やが並んでいる。日本円で買える。

アワノス焼き物工房

工房の奥は売り場になっていてたくさんの美しい焼き物が並んでいる。小さなお皿でも日本円で1万円位の値段が付いている。交渉によって半値以下に下がるが、それでも高い!

泊まったホテル

絨毯工房

ここではワインが造られている。洞窟は温度の変化が少なくワインうを作るのに最適だそうだ。セルベ野外博物館にもブドウが植えられていた。

ウチヒサル

洞窟の家でチャイを飲む。

3姉妹の岩

カッパドキアワインの試食

ウチヒサルの谷

セルベ野外博物館

白い滑らかな岩肌の波が谷一面に広がっている。鳩の谷とも言われている。鳩のふんを集めてブドウ畑の肥料にしている。

ギョレメの谷パノラマ

この家(2つの部屋)を政府から1万円/月で借りている。テレビも揃っていた。

ローズバレー

紀元前、ヒッタイトの昔から、人々はこの巨大な岩を城塞として利用していた。ヒサールとは城塞を意味する。ここはラピタのモデルになった所だそうだ。岩にはかつて人が住んでいた無数の穴がある。

トウズ湖 アンカラへ行く途中に立ち寄った。

トルコの塩の70%はここで取れる。残りはエーゲ海で取っている。この湖の広さは琵琶湖の2倍程あるが、深さは深いところで2メートルしかない。トルコでは2番目に大きい湖である。

木も草も何も無いので、写真を撮っても何だかわからない。

トルコは絨毯の本場である。ここでは紀元前1千年もの昔から、絨毯が織られていたそうだ。

シルク絨毯を織り上げる織り子はエリートだそう。

絹糸を繭から紡ぐ作業から説明を受けた。

洞窟に残されているフレスコ画。

ギョレメの谷から町を見る。伸びるアイスクリームが売られていた。遠くに見える美しい山はエンジェス山で3916mある。このエンジェス山とハサン山 3268mからの火山灰と溶岩が、長い年月をかけてカッパドキアの風景を創った。洞窟には1950年代まで人が住んでいたが、崩れる危険性が高いので、政府が近くに集合住宅を作って引っ越させた。トルコ人は集合住宅が好きだ。

工房入口:工房は洞窟を掘って造られていた。

トルコのアインシュタインと呼ばれている。NHKの番組で紹介されたこともある芸術家。5代目で陶芸を始めて43年になるそう。

地下都市を出てから後ろを振り返る。この岩の中に、9階もある地下都市があるとは信じられない。

全般
ここは、長い年月をかけて大自然がもたらした世界に例を見ない奇岩の観光地である。ヒッタイトの言葉で「美しい馬のいる場所」という意味を持つカッパドキアは、その風景だけでなく歴史的にも重要な観光地である。この地方は大変肥沃な土地であり、野菜や果物など多種の農作物を栽培し各地へ流通させている。またワイン作りもこの地方の重要な産業となっている。

地形の歴史
カッパドキアの珍しい地形は数千万年前に、エルジイェス山とハサン山の連続した大噴火により火山岩が流れ出し大量の火山灰や粘土、石灰華、玄武岩等が何層にも堆積し、それらが次第に固まり始め、100〜150mの厚さの凝灰岩層状態となった。その後、風や雨の影響を受けた侵食により長い時間をかけて谷や峡谷となり現在の独特な地形が作られた。比較的柔らかい岩肌のため、それらの地形を利用して人々は穴を掘り家や教会等を作り始めた。50年ほど前(1940〜1950年代)までその中で人々が暮らしていた。

歴史
カッパドキア地方の歴史は、紀元前2000年頃にはこの地にヒッタイト人達が定住し、その後アッシリア人達が商業の拠点とした。紀元前1250年以降はフリジア人、リディア人、ペルシャ人、マケドニア人達により次々と支配者が変わったが、西暦17年以降はローマ帝国の支配下となり交易や軍事拠点として栄えることとなった。そしてアナトリア(小アジア)へキリスト教が広まるようになると聖人パウロがカッパドキアに最初のキリスト教徒共同体を作り、その後のキリスト教徒迫害が起こるようになるとキリスト教徒達はカッパドキアに逃れるようになった。このためカッパドキア地方の各地には古代の遺跡と共にキリスト教に関する多くの遺跡が残されている。ローマ帝国時代が終わるとこのあたりも他のアナトリア同様にセルジュク人やオスマントルコ帝国の人達の支配下に置かれ、現在にいたる至っている。